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宮城県
復興取材レポート

NOW IS.対談 in 石巻
水野美紀さん × 株式会社街づくりまんぼう 木村仁さん

開館から20年。
萬画館とともに見守る石巻のまちづくり。

20年以上前からマンガを活かしたまちづくりに取り組んでいる石巻市。今回は、その中核施設である石ノ森萬画館を訪れました。東日本大震災当時のこと、10年経ってまちがどう変わったか。石巻市でボランティア経験のある水野美紀さんが、代表の木村仁さんにお話を伺います。

つながりが生んだ
多様なまちづくり。

木村仁(以下木村)―萬画館がオープンしたのが2001年。震災は、ちょうど開館10周年を迎えようという時に起きました。

水野美紀(以下水野)―あの時は萬画館にいたんですか?

木村―あの地震があった時は石巻魚市場近くで打ち合わせをしていたのですが、揺れが収まったあと、萬画館に戻って来てしまったんです。本当は、すぐに高台に逃げないといけなかったのに。萬画館に着いてお客さまと従業員の避難が完了していることを確認してホッとした時、川の水が引いていることに気がついたんです。津波が来ると思って、急いで避難しました。

水野―石巻の方々は、水が引いたら津波という知識がある?

木村―「地震=津波。津波が来る時は潮が引く」というのは小さい頃から親に教えられてきました。車で高台に逃げて、坂を登り始めた瞬間、すぐ後ろまで津波が来ていました。

水野―ゾッとしますね…。

木村―もっと早く逃げるべきでした。萬画館には6mの津波が押し寄せました。流されて来たがれきでガラスが割られ、1階の展示物や、売店の商品は全部流されてしまいましたが、原画などの貴重な資料は無事でした。

水野―川がこんなに近いのに?

木村―約100年前、この辺りに6mの津波が来たという記録が残っていて、萬画館はそれを参考に設計され、貴重な資料は全て8m以上の高さにある上階に保管していました。教訓が活かされたんですね。

水野―私は、震災の一週間後に、ボランティアの第一陣として石巻市に入ったんです。大学のグラウンドにテントを張って、1週間ほどがれき撤去などのお手伝いをしました。その時、萬画館の建物も見ていたんです。あの中はどうだったのかなと思っていたのですが、そんなことになっていたんですね。

木村―そんなに早くから。

水野―はい。裏道にはがれきが山になっていて。津波が来た場所と少し上った高台とでは天と地ほど状況が違っていて、恐ろしさをまざまざと感じました。

木村―そうでしたね。よくぞここまで戻ったと思います。震災後、水野さんのような方々がたくさん石巻に来てくれて。本当に助けていただきました。中・長期的に関わってくれる人も多いんですよ。移住してきた人もたくさんいます。

水野―そうなんですか。

木村―石巻は県内第二の都市ですが、近年活気がなくなっていて、どうにかしようとマンガを活かしたまちづくりをしていましたが、震災で一気に景色が変わりました。しかし全国からたくさんの優秀な人たちが来てくれて、他地域とのネットワークや人と人とのつながりが生まれました。震災後すぐに「街なか創生協議会」という組織を立ち上げ、さらなるネットワークづくりやこれからのまちづくりのガイドラインなどを話し合い、実践してきました。

水野―以前より活性化している側面もあるんですか?

木村―はい、震災がなかったらできなかったであろう取組もあちこちで発生しました。今はその力をどう次世代につなぐかという段階だと思っています。マンガを活かしたまちづくりはこれからも進めていきますが、新たな仲間や若い人たちと一緒になって、新しいことにも挑戦していきたいです。


水野美紀(みずの みき)
1974年生まれ、三重県出身。『踊る大捜査線』シリーズなどのドラマ、映画で幅広く活躍。エッセイの執筆も行う。東日本大震災発生後数日で被災地に入り、一般の人々とともにがれき撤去などのボランティアに従事した。


木村仁(きむら ひとし)
1968年生まれ、女川町出身。株式会社街づくりまんぼう代表取締役専務。会社設立時からマンガを活かしたまちづくりを推進。震災後は「コンパクトシティいしのまき・街なか創生協議会」の一員として復興事業にも関わる。