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復興取材レポート

NOW IS.対談 in 気仙沼
蝶野正洋さん × 気仙沼市消防団団長 菊池賢一さん

発災直後、最前線で
命を張った「消防団」という存在。

30年以上前から、プロレスの興行で何度も気仙沼を訪れているという蝶野正洋さん。2010年からAEDの啓発活動を行い、日本消防協会の「消防応援団」も務めています。そんな蝶野さんが、「東日本大震災をきっかけに知った」という消防団の存在。今回は、気仙沼市消防団団長の菊池賢一さんに、震災当時の知られざる消防団の活動についてお話を伺います。

あの時、闘った人がいて
今の気仙沼がある。

蝶野正洋(以下、蝶野)ー東日本大震災があった日、帰宅したのが夜で。そこで初めて津波の映像を見て、「ええっ!」ってとにかく驚きました。あの日、消防団のみなさんはどうされていたんですか?

菊池賢一団長(以下、菊池)ー消防団は震度5以上の地震があると屯所※に集まらなくてはいけないんですね。なので、全員が屯所(とんしょ)に集まって、住民のみなさんを誘導しつつポンプ車を高台に避難させました。津波の第一波が来たのは、地震の30分後でした。

※屯所:消防団の詰所

蝶野ーそんなに早いんですか!

菊池ーでも、第一波はさほどでもなくて。大きいのは第二波だったんですよ。

蝶野ー揺れはどうだったんですか?建物の倒壊は?

菊池ー電信柱が揺らぐほど、激しい揺れでした。でも、地震で建物の倒壊はほとんどなかったんです。高台に避難して海を見ていました。真っ黒い水面が浮き上がってくる感じでしたね。

蝶野ー現実とは思えないような光景が広がっていたんですね。俺、東京消防庁の活動のお手伝いをしているんですけれど、震災では250名近くの消防団員が亡くなったと聞いて。沿岸の消防団の方たちが命を張っていたのに、あまり報道されないじゃないですか。それに、気仙沼は火災もあって…。地震、津波、火災と本当に大変でしたね。

菊池ー流された石油備蓄タンクに引火して、それが波で押されて住宅が燃えました。我々消防団には、12日の昼すぎに消火活動の要請があって、現場に向かいました。13日には東京消防庁のポンプ車が50台以上来てくれて、数日かかって消火しました。

蝶野ー現場に行こうと思ってもがれきがあって大変だったんじゃないですか?

菊池ー気仙沼市消防団にはバイク隊があるので、団員は2台一組になって各地を巡り、被災の状況などの情報収集に奔走しました。

蝶野ー要請が来たら、バッと着替えて現場に行くわけじゃないですか。本当にスーパーマンですよ。普段は別の仕事をして、それでちゃんと訓練もして…って。頭が下がります。だから俺、イベントに参加して、消防団募集のお手伝いをしているんです。消防団の存在を知らない人が多いし、集合住宅や新興住宅地だと、地域に消防団があるのを知らないんですよね。

菊池ー気仙沼もそうですが、全国的に消防団員が減っています。

蝶野ー縦社会に入りづらいとかいろいろ理由はあるんでしょうけれど、消防団の歴史はすごく長いから、時代時代で変わっていいんじゃないかと思うんですよね。役割もいろいろあるから、体力のない人は情報収集に回ったりとか。ところで、菊池さんが消防団を続けられた理由は何ですか?

菊池ー大層な理由はないんですよ(笑)。まわりの人に恵まれたんだと思います。とにかく震災は、我々消防団員も普通の状況ではなかった。あとになって冷静になったら「よくあんなことできたな」と思うことも多々あります。あの時は、夢中で。

蝶野ーそういう活動をしてくださった方がいるから、こうして復興したまちの姿がある。本当にヒーローです!

(文責・沼田佐和子)


蝶野正洋(ちょうの まさひろ)
1963年生まれ。東京都三鷹市出身。プロレスラー、タレント。近年では「AEDを使った救急救命」と「地域防災」の啓発活動に力を入れている。東日本大震災の後は、避難所へ支援物資を届けたほか、チャリティーマッチや被災地訪問も行った。


菊池賢一(きくち けんいち)
気仙沼市消防団団長。気仙沼市出身で、市内でクリーニング店を経営している。消防団に所属して41年。ひとつとして同じ災害現場はないため、常に訓練を行うこと、団員同士の結束を強くすることを心がけている。