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復興取材レポート

【語り部が本当に語りたいこと】 南三陸ホテル観洋 語り部バス 伊藤 俊さん

2011年夏頃のスタートから、1日も欠かすことなく運行されてきた「南三陸ホテル観洋語り部バス」。今回は、実際に語り部バスに乗車後、ガイドの伊藤 俊さん(南三陸町・歌津出身)にお話を伺いました。

鉄骨だけが残った「南三陸町旧防災対策庁舎」。多くの入院患者や職員が犠牲となった「公立志津川病院」。まさに壊滅状態の街並み。その被害の凄まじさから、とりわけ大きく報道されてきた南三陸町。震災直後からまちを訪れる人も多く、「南三陸ホテル観洋」では“道案内”という形でお客さまのバスに乗り、案内をしながら震災の話をするようになったと言います。

しかし、案内できるのはバスで訪れた団体のお客さまだけ。公共交通機関やシャトルバスで来た個人のお客さまは、タクシーでまちに向かうしかありませんでした。
「そこで女将が気付いたんです。タクシーに乗った人が、行先を言いづらそうにしていることに。防災庁舎やまちを見に行きたいけど、本当に行っていいのかな…と気にしている様子がうかがえて…。でもやっぱり行って自分の目で見ないと分からないじゃないですか。それなら、当館のバスを使って案内をやろうと。より多くの方に知ってもらおうと。これが、語り部バスの始まりです」。

以来、語り部バスは、天候不良でも、たとえ乗車するお客さまが1人でも、毎日運行されてきました。利用者は延べ35万人以上。ホテルのバスに乗車して町内をまわるので、高齢者や子どもでも利用しやすく、さまざまなお客さまが乗車します。

ガイド役はホテルスタッフや地域住民。この日はホテルスタッフの伊藤さんが担当でした。ホテルを出発したバスは「戸倉地区」「高野会館」「旧防災庁舎」を約1時間でまわるのが基本コース。バスでもかなりのぼった印象を受けた「旧戸倉中学校」にも津波が押し寄せたこと。今は解体された「戸倉小学校」では、屋上ではなくより安全な高台に逃げる決断をして、校内にいた全員が助かったこと。海にほど近い「高野会館」では、高齢者には高台避難は間に合わないと従業員が判断し、屋上に避難することで多くの命を救ったこと。伊藤さんは時折寂しそうな表情を浮かべながら、時には笑顔も交えながら、心の葛藤を隠すことなく、あの日まちで起こったことや、復興工事が進むまちの状況を語り続けます。

実は、語り部バスがスタートした当初は、語り部をやっていなかったという伊藤さん。「話したくなかったです。バスに乗って案内する気持ちなんて起きなかった。でも当時、南三陸町出身で語り部バスに乗っているホテルスタッフは、1人しかいませんでした。私が生まれ育ったまちのことを、出身ではないスタッフが一生懸命話している。これでいいのかな、と思って私も始めたんです。でも最初は泣いていました。もうつらくて言葉がなかなか出なくて」。

それでも伊藤さんは、バスに乗り、語り部を続けてきました。それは、自分の経験談を聞いたり、あの日の南三陸町での様々な決断や行動を知ったり、津波の高さや海までの距離感を肌で感じることで、自身の防災・減災意識の向上につなげてほしいという想いから。また、一度乗車されたお客さまが誰かに話すことで別なお客さまが来てくれる。そうやって広がっていくことに、続けることの意味があると言います。

東日本大震災から8年が経過し、復興工事が進み、被災したまま残る建物も少なくなっている南三陸町。被災の状況が目に見えづらくなっている今だからこそ、語り部の重要性は増しています。

伊藤さんがいつも、語り部バスで必ず伝えていること。

「手を合わせてみてください。あったかいでしょ?こんなに当たり前のことを、自分たちは守れませんでした。だから、このあたたかさを、守らなくてはいけないんです」。

これは伊藤さんが、遺体安置所で亡くなった方の手を握っても温まらなかったことからの気付きです。報道だけでは知ることのできないこと。「南三陸ホテル観洋 語り部バス」では、そういった気付きも含めて伝えています。今日もまた、一人でも多くの方のきっかけ、スタートにするために―。

 

南三陸ホテル観洋 語り部バス
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