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復興取材レポート

あなたが忘れないでと言うなら、わたしは忘れない。フリーアナウンサー 伊藤 若奈さん

現在は、「つばめの杜ひだまりホール」でりんごラジオの足跡を展示。

山元町臨時災害FM「りんごラジオ」は、2017年3月31日に惜しまれながら、閉局しました。

伊藤若奈さんが「りんごラジオ」にボランティアとして入局したのは、2011年3月24日。開局の3日後でした。
以来、閉局の日まで6年間、ディレクター、アナウンサーとして携わりました。
「心に寄り添う発信」に徹底的にこだわった「りんごラジオ」では、街の人のインタビューを積極的に放送。伊藤さんが担当したインタビューはのべ3000人にもなるそうです。

「どのインタビューも印象に残っています。すごく学ばせてもらった。感謝の想いでいっぱいです」。数多くの人に出会い、話した伊藤さんには、ひとつの強い考えがあります。

「心の復興なんて、本当はないと思う。あんな辛いことを経験したら、前のようには戻れないですよ。だったら、だからこそ、わたしはいつまでも山元の人たちのそばに居続けたいんです。山元にいる人たちが『私たちのように被災した人がいるのを忘れないでほしい』と言うのであれば、私は絶対忘れない」。

災害FMとしての活動が放送人としての自分をつくった。

伊藤さんは、生まれも育ちも山元町。
高校卒業後はニューヨークで暮らし、大学でメンタルヘルスと心理学を学び、2011年1月に帰国してからは、実家で暮らしていました。

震災後、何かしないといけないという気持ちに掻き立てられた伊藤さんは、町役場に避難してくる人々の手伝いを始めました。

辛い状況にある人にも数多く出会ったと言います。
「家族を失い獣のようなうめき声をあげている人、感情がなくなったような目で、母さんを引き上げられなかったよ、と話す人。わたしはそういう人に何もできなくて、ただ側にいるだけでした。メンタルヘルスの勉強なんて役に立たなかった」。

日常とかけ離れた自分の故郷。
そんな故郷の力になりたいという気持ちだけで臨時災害FM放送局「りんごラジオ」に入局しました。
当初はライフラインなどの情報を多言語で放送。

徐々に被災者やボランティアの人のインタビューが増えるようになりました。
「町で起きたことは小さなことでも発信していました。地元の小中学校の話題とか。みんなが仮設住宅に入るようになってからは、お茶っこ会にも参加しました」。

町役場の敷地内にあったりんごラジオのスタジオの様子。

ラジオの制作に関わった経験がなかった伊藤さん。
「放送人としての核が生まれたと感じた取材があります。山元町外に避難しているみなし仮設に入居されていた方の交流会が仙台であったのですが、参加者のひとりが、話しているうちに声を上げて泣いてしまったんです。『山元に帰りたい、山元を離れたくなかった』って。すぐに、これは私が今伝えないといけない現場だと思いました。行政の人にも、山元にいる人にも知ってほしいって。この交流会の音声はカットすることなく全部放送しました」。

その後、取材した人が百人、千人を越えても、常に反省ばかりだったと言います。
「取材が心の傷になっていないかな、寄り添った取材ができたのかな、と考えていました。番組の都合で想いを切り取るのではなく、本当に心の底から出てきた言葉を放送したい。それが寄り添うということだと思って」。

最終放送日にはたくさんの市民がスタジオを訪れました。局長の高橋厚さんと一緒に。

伊藤さんは現在、仙台でフリーアナウンサーとして活動しています。

「本当は、山元の現状を発信したいんですが、なかなか思うようにいかないのが現状です。私のように、被災地にいたいのにそうもいかなくて、もどかしく思っている人って大勢いると思う。山元の人たちには、『今も心を寄せている人はたくさんいるよ』って伝えたいですね。人間って、自分のことを分かってほしい、認識してほしいって本能で感じるんだと思うんです。だから『被災地を忘れないで』という言葉が出る。わたしは、いつまでも、そういう本当の気持ちに、寄り添い続けたいと思います」。


フリーアナウンサー
伊藤 若奈さん

宮城県山元町出身。高校卒業後ニューヨークで7年ほど語学学校と大学に通い、震災当時は山元町に住んでいた。「りんごラジオ」閉局後は、楽天野球団のラジオパーソナリティを経て、今はフリーのアナウンサー、ディレクターとして活動中。