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河北新報による復興に関する記事

東日本大震災5年2ヵ月/私の復興 幸せのかたち/仙台市若林区・荒浜再生を願う会代表 貴田喜一さん(70)/人が集う場 もう一度

※下記記事は2016年5月11日に河北新報朝刊に掲載された記事です。掲載している数値などについては、現在の数値と異なる可能性があります。

 海辺から150メートルの自宅は津波で全壊した。

 自宅跡に建てた集会所は昨年10月の夜、不審火とみられる火災で全焼した。仙台市沿岸の荒浜地区の再生を願う元住民やボランティアの活動拠点だった。

 大津波に続く火難。それでも、へこたれない。

 「人が集う場がなければ古里再生は始まらない」

 今春、集会所の再建に着手した。型枠にコンクリートを流し込み、基礎部分が出来上がった。得意の大工作業で、あらかた自力で建てる。8月下旬の完成を目指す。

 「火災で駆け付けたときは怒りを通り越し、ただ立ち尽くすだけだった。再建を決めたのは仲間の後押しがあったから。必ずやり遂げる」

 荒浜には約740世帯が暮らしていた。震災で186人が犠牲になり、ほぼ全戸が流された。自身は妻と一緒に軽トラックに乗り、難を逃れた。

 住宅の外装建材卸業を営んでいた。古里は以前の面影が消えたが、18代にわたって根を下ろした土地を離れる気はなかった。心地よい潮風、過ごしやすい天候が気に入っていた。住民同士の絆が強く、「隣近所は親類以上の付き合い」と懐かしむ。

 待ったをかけたのが行政だ。仙台市は11年12月、沿岸一帯を人が住めない災害危険区域に指定した。指定解除を求めて訴訟も検討したが、断念した。「里浜や里山の生活が日本人の原点。海沿いの住宅地は他にもあるのに、なぜ駄目なのか。市の姿勢は説明あって対話なしだった」。悔しさがこみ上げる。

 帰郷を望む住民が11年10月、荒浜再生を願う会を結成した。当初、名を連ねたのは約60人。やがて1人、また1人と去り、今は11人になった。

 住民の穴を埋めるように荒浜にはさまざまな支援者が訪れる。集会所を設計した建築士、月1回の地域清掃で参加者にピザを振る舞う料理人、木製の縁台を作る東北工大の学生たち、荒浜の記憶を集める東京の編集者。震災直後に来た遠方のボランティアがふらりと顔を出すこともある。

 「不思議なことに外部の人たちが応援してくれる」

 人々を引き寄せ、つないできたのが自宅跡で私財を投じた建物だ。12年初めに10平方メートルの小屋を建て、14年秋には33平方メートルの集会所を増築。火災後はビニールハウスを設けて活動拠点の代わりにした。

 震災から5年2カ月。「もう戻ることは諦めた。けじめをつけた」。納得させるようにつぶやく。昨春、市の防災集団移転促進事業で造成された仙台東部道路の東側にある団地に新居を構え、仮設住宅を出た。

 今願うのは、荒浜に人の気配や営みを取り戻すこと。文化を伝え残し、自然を再生させたい。市内唯一の深沼海水浴場も再開できたらいい。願う会は本年度、討論会「荒浜アカデミア」を3回開き、地区の将来像を探る。

 新しい集会所は前の建物より25%広くなる。もっとたくさんの人々が集えるように。(庄子晃市)

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自宅跡で、焼失した集会所の再建を始めた貴田さん=仙台市若林区荒浜

◎私の復興度/30%

 4年間の仮設住宅暮らしを経て、新居に移って1年。住まいに限れば90%復興した。古里には戻れなかったが、新居は海から約1.5キロで大字は荒浜。現地再建だと言い聞かせている。荒浜再生活動の拠点だった集会所が全焼し、心の復興は振り出しに戻った。再建を始めた現時点の復興度は30%。