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復興取材レポート

【NOWIS.復興インタビュー】亘理町「おらほのいちご」

のどかな田園風景が広がり、新しい道の整備が進む亘理町吉田。
いまでこそ、全国でも有数のいちごの産地として復活を遂げ、数多くのビニールハウスが立ち並びますが、
震災直後はほとんどすべてのイチゴ畑が津波にのまれ、復活は絶望的と思われていました。
その状況を目の当たりにしながらも、
マイナスをゼロに戻し、イチからいちご農園を作り直す選択をしたのが
「おらほのいちご」です。

今回は生産組合の一人であり、株式会社和莓の代表でもある鈴木豊さんにお話を伺いました。

震災1ヶ月後に結成

イチゴは土が命。
亘理のイチゴ農家が代々育てた土は、津波が持ち込んだ塩と泥、ガレキに覆われてしまいました。
大切な畑の惨状を目の当たりにし、皆、言葉を失い、もうだめだと思ったと鈴木さんは言います。
それでも、震災の1か月後、若手が集まった会合で出てきた言葉は
「続けたい」
だったそうです。

「津波で家族を亡くした人もいましたし、家が流された人もいたんですが、話し合ううちに、
『この土地で亘理のいちごをもう一度食べてもらいたい、亘理でいちごを育てたい』と言い出して」。

イチゴ農家は断念せざるを得ないという仲間もいたなか、
皆の熱い想いを受け継いで生まれたのが「おらほのいちご」でした。
「おらほ」とは地元の言葉で「自分たちのいちご」という意味。

これが自分たちのイチゴだ、と誇りを持って出荷したいという想いが込められています。

最もおいしい状態で、お客さまへ

「おらほのいちご」の特徴は、できるだけ完熟に近い状態で出荷していることです。

「運送でイチゴがつぶれないように、通常は身が固く、色がつく前に収穫しています。
この方法だと、イチゴは赤くなりますが、甘みは上がりません。
『おらほのいちご』は、完熟の、最も甘い状態で収穫します。
収穫から店頭に並ぶまでの日数を極力削減することで、
お客さまが口にするまで完熟をキープしたまま食べてもらえるようにしているんです」。

イチゴのこととなると口数が増える鈴木さん。
自分が育てたイチゴへの自信を感じ取れます。

インタビューの時、鈴木さんの顔が最もほころんだのが試食会のこと。

「1年に2回ほどのペースでスーパーなどの店頭に直接立ち、
実際にお客さまと触れ合いながら、試食と販売をしているんです。
味の感想や意見を直接聞けるのは、いいですね」。

海が成功に導いた「夏いちご」

震災後、支援の縁で生まれた新たな挑戦があります。
それが「夏いちご」です。

「あるとき、同生産組合のひとりに、夏に出荷できる苗木を育ててみないか?という話があり、京都や北海道で栽培されている『夏いちご』の苗を業者からもらったんです。
試しに路地で育ててみたら成功してね。これは挑戦する価値があると思った」と鈴木さんは言います。

温度管理が難しいと言われる夏いちごですが、亘理町は太平洋の海風がハウス内の温度を下げてくれるそうです。

津波でイチゴ農園を壊滅させたのは海。
しかし、その海が「夏いちご」の栽培を成功させたのです。

「おらほのいちご」は冬いちごに加え、7月上旬から出荷を迎える夏いちごの二枚看板を持ち、1年を通していちごを出荷できる体制を独自で作り上げました。

冬、夏、1年を通しての出荷を可能にしたことで、昨年の「おらほのいちご」の出荷は1億6000万円をこえる程にまで成長しました。

未来の先「おらほ」のいちごへ

「将来的には直売所を建て、そこでイチゴはもちろん、イチゴを使用したジャム、ジェラートなどを販売できる店舗を展開していきたい」と鈴木さん。

今後の「おらほのいちご」の展望を伺ったとき、
鈴木さんの口から出た言葉が印象的でした。

「『おらほのいちご』は若手で立ち上げた団体ですが、
数年たてば、後継者問題にぶつかることも出てくると思います。
その時に今の組合員だけでどうにかするのではなく、
場合によっては、一度もイチゴを育てたことのない人、Iターンで亘理に来てくれる人を
新たな仲間として、一緒にやっていけたらいいと思います」

現状に満足することなく、未来の「おらほ」を考え、亘理のいちごを繋げていく。
その姿勢が新たな「おらほのいちご」に、続いてゆくのだろうと感じました。

おらほのいちご HP
http://orahonoichigo.jp/